可読性日記20190914

俺は何をやっているのだろう。眠い。早く寝たほうがいいし、眠い時に人に見せる文章を書かないほうがいい。そうじゃなくて。多分数学を勉強している。分裂があるから。どちらにつくにせよ数学は使うだろう。数学は、線形代数とか解析学とかそういう話ではなくて、こないだの可読性日記の学問の分類でいえば①哲学に属する類のやつである。アカデミックなことに目を向ければこうなってしまうのだが、実際僕には何か恵まれたものがあるわけでもないしきっと研究者になることはないのだと思う。でもこれは本気で思ってるわけではなくて、「では就職あたっての数学ってなんだろう」という話に変えて趣旨を伝える、的なレトリックである。
では就職にあたっての数学とはなにか。そもそも就職するものにとっては分裂が前提となっている。特定の学問をやりたくて、あるいはもっと具体的な木曜をもって研究者になる人はたくさんいると思うけど、就職を目標に就活する人に限って言えば(教師や医師などの大学でそもそも専門性が定められている人は除いた。けど彼らは一足先にわずかに未熟なうちに似た分裂を経ていると思う)そもそも分裂の塊である。就職を目指す彼らは、何をやっているのだろう。就活とかいうのでは自己分析とかいうのをやらされるらしい。自己分析、不穏な響きがある。本当の自分とは何か、自分は何をしたいのか、自分には何が向いているのだろう。こういう切り口で己の分裂をいくばくか目の粗いものに統合して、それからリクナビになんかいろいとするんだろう?しらんけど。就職斡旋業者はこうした作業をたくさんの会社から請け負って、それから学生に自己分析させて、マッチングさせるわけじゃないですか。こう考えると自己分析が果たす役割というのは、自発的な内面との向き合いとは毛色が異なってくる。いかに自己を分析するか。そしてその能力こそ普遍的に求められているのではないか。どちらに行くにせよ自己分析能力が求められる。彼らにとっての数学は自己分析能力かもしれない。彼らはどうやってその能力を鍛えるのだろう。内面との向き合いの訓練をするのだろうか。かもしれない。でももっとぴったりくる言葉あるじゃん?インドガンジス川の旅。ヒッチハイク。自分探し。
俺はこういう連想やアナロジーを用いた文章の悪質性を何度も指摘しつつも、こうやって、俺は。ああ。いいかい、つまり、ぼくは、おれは、分裂している。