これまで人生を駆動してきた動力のようなものが機能不全に陥ってしまっているようだ。何事もやる気が起きない。これまで何を必死に生きてきたのかさっぱりわからない。過去の自分にまるで共感できない。
例えば俺は浪人をしていたころから熱心に日記をつけていた。日記と言っても俺の生活は万年破滅しているし、精神も万年破滅しているのでひたすらに湧き出る感情を適当に因果づけて紡いでいくようなもので、この世に満ちる理不尽な事象とそれを引き起こした己自身の理不尽な欲求の存在を鑑みれば、その手の文章の終盤は全く悲惨で続く言葉がなくなるものであり、罫線を無視した叫びのような文字の羅列が断末魔となるわけであった。狂人日記あるいは地下室の手記といった陰惨さであるが、ともかくそういったものをほぼ毎日熱心に生産していた。このようなゴミであっても、思い返せば日記を書く時間は僕にとっては思考の整理、記録であり一日にかたをつける作業というより、一日を送り、そうして得た記憶のキャッシュが睡眠を経て取捨選択(これは全く俺の自由意志に基づかない)され脳に定着する前に、その日発見した真理(どんなに些末なものであっても!)をシリアライズする、そういったことに意味を見出していた人生にとって言えば、これ自体があらゆることの目的であったかもしれない。ところが最近はてんで日記を書いていない。
真理といえば俺は大学に入ってからというもの勉強ばかりしていた。これまでずっと勉強ができることがアイデンティティだったタイプの人間では「ない」。浪人中に目覚めちゃったタイプの人間である。関心領域は広かった、わけでもない。今でこそロゴスエブリウェアと標榜し「俺は世界のいろいろな知に関心があるのであってなにかの専門家になりたいわけではない」と異自認しているわけであるが、当時はそれほど明晰に思っていたわけではなくて、とにかくいろいろな分野の知を知りたかった。そうやっていればいずれ「本当のこと」を知れる気がしていた、多分。本当のこと?
2020年は株をやっていた。株は楽しかった。この世界の写像であってまったく予想の困難な株価を相手にあらゆる道具を駆使し、自分の判断のみで勝敗が決する。そう、自分の判断や理論・思索の正しさが直ちに明らかになり、さらにその結果その人の資産の増減を決する。敗者は市場から去るほかない。一方、例として学者を上げてみれば、連中の知的怠惰は構造上の問題であるとわかるだろう。トレーダーとして生き残り、市場を相手に搾取を続けることは何より魅力的であった。しばらく株式をトレードしたあと、仮想通貨を始めた。それからすぐに、ネット上で出会った男とともに仮想通貨を自動で売買するbotterを目指した。男ははっきり言って冴えない人間で、私がメキメキ知識をつけバリバリに研究しガシガシコードを書くようになると議論にぎこちなさが見えてきた。それでも他人とプログラミングをするのは楽しかったし、何より統計的なモデリングの知識やプログラミングといったスキルや自分の強い好奇心と無謀さが完全に調和するこの営みに心底惚れ込んでいたため、自分をこの世界に入れ込んだ恩人が無能であることなど気にせずシコシコしていたわけであるが、無理があり一人でやることにした。一人でやってみた結果、はっきり言ってかなりうまく行った。恐ろしいくらい儲かった。完全に人生上がったつもりでいた。「本当のこと」はこのときに見てしまったのかもしれない。君たちは人生上がったことがあるか?秒速で1億稼いだことがあるか?(俺もないぞ)。俺は人生上がったつもりになったことがあるのでその時の気持ちを教えてあげるが、まず資本主義社会における最高の自由を得てしまったわけなので、自分がなんのために生きているのか考える必要がある。思いつかない。つらい。これまでの人生を回想してみる。そうすると自分の人生の浅さ、非本質さ、楽しくなさに一通り絶望することになる。俺は全く自分の享楽について無関心で、知や性を貪り脳汁におぼれて生きてきた事を自覚した。俺の人生には愛がない。俺の生まれはマジで最悪で、常にここを抜け出したいと思っていた。言ってみれば生活を愛していなかった。好きなものなんてなかった。この人生で満足するわけにはいかないから、享楽をもたらすものを愛するわけにはいかなかった。「本当のこと」を知りたかったのも「人生上がりたかった」からである。俺に知的好奇心旺盛という享楽の言葉は似合わない。一刻も早くこの世の心理を知って悟りたかった。それは悲惨な所与からの脱出である。ああ、辛くなってき