色とはなにか①|質問箱

以下は次の質問箱でいただいた質問への回答です。本気で回答したら長くなりすぎたので昔作ったブログの場を使いました。

peing.net

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大変おまたせしました。とても面白い質問だったので、頑張ってしまいました。少し長くなります。まずは結論から「どの生物も、僕も、君と同じ色を見ているが、それぞれの生物がに別々に感じている”色”という概念は存在しない」と考えています。あまり哲学的な回答には思われないかもしれませんが、愉快な質問の回答が退屈な結論に至るまでの、面白い過程を紹介します。なお随所雑な議論がありますがご容赦ください。(言語や物理学についての考察・参考文献がないなど)

 

赤は赤いのか?


「色が分かるとはなにか」。「なにが何色だと分かる」、とはどういうことか。かなり抽象的で分かりづらいですね。具体例で考えてみます。大体のものには”色がある”のでなんでもいいんですが、この手の議論で使われがちな「りんごの赤」を例にします。

「りんごが赤いとはなにか。」いやいや、その前に「りんごとはなにか」をはっきりさせないと。僕の想定するりんごとあなたのりんごに乖離があっては困るので。🍎←これです。🍏←これではありません。椎名林檎でもありません。🍎です……わざわざ確認しておいて恐縮なのですが、「赤いりんご」ときいて🍏を思い浮かべることはないでしょう。ならば「赤いリンゴは赤いとはなにか。」と言い換えれば齟齬がありませんよね。
では「赤いリンゴは赤いとはなにか。」「赤いから赤いんだよ。」全くそのとおりです。赤いものを赤く感じている。赤い感じがあるものが赤い。この赤くて丸い、甘い物体にはりんごという名前がある。故に「りんごは赤い」わけです。

赤い感じ

では改めて「赤いりんごは赤いとはなにか」

赤いりんごを想像してみてください。なぜ赤いのでしょうか……「赤いから赤いんだよ」と思いましたか?全くそのとおりです。赤いものを赤く感じている。赤い感じがあるものが赤い。そして、この赤くて丸い、”甘い”物体にはりんごという名前がある。故に「りんごは赤い」わけです。

 

ちょっとまってください。話はそれますが、りんごは”甘い”?りんごは本当に”甘い”のでしょうか?

例えば、まだ人類がりんごを食べたことがないその時、りんごは「甘い」のか?人類が絶滅してもなおりんごは「甘い」のか?火星人はりんごを「甘い」と思うだろうか?

 

りんごはひとりでに甘いわけではない。なぜりんごは甘いのか?りんごの何が甘いのでしょうか?りんごの中の甘み成分でしょうか?しかし、りんごに含まれる糖などの物質をいくら挙げてみても、そのどれもにとっても、「甘く」あるためには、ある人の口に入れられ、舌に撫でられ、味覚に感じられ、その人の脳に「甘い感じ」を生じさせ、「甘い」と言ってもらわなくては「甘く」なれません。りんごは人に食べられ、「甘い」と言われててはじめて「甘く」なるのです。

となると、りんごに備わっているものとは、「甘さ」ではなくて、〈りんごを食べたときに感じる「甘い感じ」を人に生じさせ、「甘い」と言ってもらえる性質〉であると言ったほうが自然でしょう。逆に言えば、「甘い」の正体とは、りんごそのもの、あるいはりんごが含む甘味成分(なんらかの糖)や人工甘味料というような具体的な物質ではなく、あなたの内側である脳内に生じる「甘い感じ」という極めて内面的なものであるといえます。それにもかかわらず私たちは、その〈内面で生じた「甘い感じ」〉を〈自分の外にあるりんごそのものの性質〉であると思い込み「りんごは甘い」と言ってしまうのです。本当はりんごは甘くないのに。

なにが赤いのか

このように、人には〈自分の中で生じた感覚〉を〈外部の物体そのものの性質〉だと思い込んでしまう悪癖があります。これを「感覚を外的対象に誤帰属する」といいます。もう一つ極端な例を示してみます。セクシーな異性を一人思い浮かべてください。とてもセクシーな、そうですそう。とてもセクシーな人を。ぼくはとてもセクシーな女性を一人、一人思い浮かべました。とても美しい。あああ、そそられる。セクシー!エロい! いまあなたが想像している人は私が想像している女性とは、おそらく別人です。性別も違うかもしれません。しかしながら全く異なる両者について、私達は同じように「セクシー」という言葉を使って語り合うことができる。セクシーなその人のことを考えるとどんな感じがするか。セクシーなその人としたいあんなことやこんなこと。しかしながら、その二人のセクシーな人は同一人物ではないのです。もっと言えば、あなたがその人に見出すセクシーを、全く同じ人を見ても私は見いだせないかもしれない。それならば、なにが「セクシー」なのか?本当のセクシーとは?それは、少なくとも実際に存在する誰かに帰属される性質ではないでしょう。どこか、例えば理想郷には「本当にセクシーな人」が存在しているかもしれません。しかし、理想郷の存在は未だ確認されていません。しかしながら、「セクシー」が存在することをあなたは知っています。もう一度あの人のことを頭の中に思い浮かべてください。私も思い浮かべます。ああなんてセクシーなんだ!しかし、その人もまたいまは想像されているだけであって、目の前には存在しません。しかしながらあなたの脳は「セクシーな感じ」を捉えている。すなわち「セクシー」とはいかなる具体物に帰属される性質ではなく、あなたと私の脳の中に生じる「セクシーな感じ」。これこそが真に「セクシー」と呼ばれるべきなのです。



話がそれてしまいましたが、「感覚を外的対象に誤帰属する」という発想がどんなものかわかってもらえたと思います。本題に戻り、この「人は感覚を外的対象に誤帰属している」という発想のもと、「赤いりんごが赤いとはなにか」ということを考えると次のようになります。

 

「赤はりんごそのものの性質ではなく、正体は脳内で生じる『赤い感じ』である。その『赤い感じ』をりんごに帰属する。すると、赤いりんごが赤くなる。」

 

赤のクオリア

この『赤い感じ』『甘い感じ』『セクシーな感じ』というような内面に生じる「感じ」一般のことを哲学の用語ではクオリアや表象といい、『赤い感じ』を『赤のクオリア』と言ってみたりしているそうです。

クオリアという用語を用いれば、「他の生物は私と同じ赤を見ているのか」という問いは「他の生物は私と同じ『赤のクオリア』を有しているのか」という問いに還元されます。同じヒトという生物であるからと言って、私とあなたの脳内に同じクオリアが生じているなんて保証はどこにもありません。私とあなたは同じ赤のクオリアを持っているのか。「赤いもの」を見たときに同じ「赤い感じ」を感じているのか。当然こういった疑問も湧いてきます。わけがわからなくなってきました。「哲学っぽい感じ」なってきましたね(?)

やってられるか形而上学

一体どうやって検証すればいいのでしょうか?

何をもって同じように感じているといえるのでしょうか?クオリアがはっきり目に見えるか、あるいは数値で把握できさえすれば論の進めようもありますが、現時点ではそもそもクオリアの実在すら確固たるものではありません。私が赤をみたときに「赤い感じ」が生じることは、私だけが確認できます。他の人には分からないはずです。同じように、私には、赤いものをあなたが見ているときにあなたが本当に同じ赤い感じを感じているのかも分かりません。

「あなたは本当に赤を見ているのか?いや待てよ、あなたは本当に意識ある人間で、何かを感じているのか?ただ「反応しているだけ」であって何も「感じて」はいないのではないか?そうではないという保証はあるのか?私には本当は意識などないのではないか?私は、本当に「赤い感じ」がしているか?赤なんてもの実在していないのではないか?色は存在するのか?意識とはなにか?我思う故に我ある、のか?しかし私は本当に「我という感じ」を抱いているのか……?」となってしまい、人生が終わってしまいます。人はいずれ死ぬ。この意識の実在性の問題については、心の哲学のハードプロブレムと呼ばれていて、歴史上、何人もの哲学者が人生をかけてこの難題に挑戦してはそれらしい結論を与えるも、死後完全に誤っていたことが明らかになり、人生が虚無になってしまうなどしています。虚無の人生を歩まないために、実在不明のクオリアというアイデアは捨て、語り得ることだけを語る別の側面から色を考えてみることにします。

質問箱色

何色か?

突然ですが、この質問箱の画像のふちの色。これは何色でしょうか?緑?青?

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かなり際どいですね。これは緑なのか?青なのか?うう、いくら考えても分からない……青か?緑か……?人はいずれ死ぬ。こんなことを考えていても、やはり人生が終ってしまいます。しかし、なぜ分からないのでしょう?これは何色なんだ?とにかく、分かることは……例えば、この〈質問箱のふちの色〉は少なくとも〈りんごと同じ色すなわち赤〉ではない。更に、ツイッターのトリの色〉とも違う……!ここで妙案が浮かびます。この奇妙な色に名前を与え、「これは〈質問箱色〉である!」と言ってしまえばいいのです!ついでにツイッターの色にも名前を与えれば「〈質問箱色〉は〈ツイッター色〉ではない!」と言ってしまえる!!「〈質問箱色〉は青でも緑でもない!〈質問箱色〉だ!」

 

命名

こうやって命名してやる事によって、”無意味な”問いに困らされることがなくなり、おそらく人生が少しマシになります。しかし、わずかばかりのマシな人生の後、また疑問が一つ湧きます。湧いていなければ、湧いてもらいます。すなわち、「なぜ緑には〈緑〉という名前があり、青には〈青〉という名前があるのに、質問箱の画像のふちの色には〈質問箱色〉という名前がついていなかったのだろうか?」

 

答えはすぐにわかるでしょう。“無価値”だからです。〈質問箱色〉を質問箱以外で見かけることはまずないです。名前が付いていたって、こんな無意味な問いに答えることしかできない。不便な言葉です。だから今まで命名されずにいたんです。無価値です。

 



無批判に「無価値」という言葉を使ってしまいました。ごめんなさい。なぜ緑と青に名前があることには価値があり、質問箱のふちの色には名前があることには価値がないのか。「価値がある」の意味がまだよくわかっていませんでした。「価値がある」とはどういうことなのでしょうか?

名前のない色

「〈質問箱色〉は質問箱でしか見かけないし、使う場面といえば、その色は何色かと問われたときくらいで、普段つかう機会はない。それゆえに〈質問箱色〉と名前がついていることは無意味だ。」と言いました。これは暗に、その色は何色かと問われ、答えるときにはその色を指す言葉があることには価値があるということを言っています。〈質問箱色〉という言葉があるおかげで、あの色が緑でも青でもない色に見えるということを伝えられます。この観点でいえば「緑」という言葉があるのは「青」でも「赤」でもない色を指す必要があるから、ということになります。色がついているものは全部「色付き色」でいいのに、わざわざ黒だの白だのシアンブルーだのと別々の名前が割り当てられているのは、それぞれの色に「意味ある違い」があり、それらを区別することに価値があるからです。言葉は自然に発生したものです。神に与えられたものではありません。それゆえ、使われない言葉、例えば他の色と区別されることない色を指す言葉は消滅します。色を指す言葉が存在するためには、ヒトに他の色と区別してもらう必要があるので、当然ヒトの目が区別できない色に別々の名前がつくことはありえませんし、区別できるからといってそれぞれに名前がついてヒトに使ってもらえるとも限りません(たとえば質問箱色はツイッター色ではないと区別できるし、実はそれぞれ名前もついているけれど、誰もその名前で呼んでいない。)ヒトに使ってもらうには、ヒトに他のものと区別されることで利益をもたらす「価値ある言葉」でなければならないのです。

色とは区別である

名前のある色とない色の違いが、ヒトに区別する価値を認めてもらわなければならない。それ故に、色に名前が存在したりしなかったりするということはわかりました。これを、「色とはなにか」という問いに対する結論に……できません。実はまだ「色とはなにか」という問いに答えたことにはなりません。こっそり「色の名前が存在するとはなにか」という問いにすり替えて、それに答えました。ごめんなさい。しかし全く「価値がない」ことをしたわけではありません。この、言葉がいかにして生き残るかという議論をすることには、それをしないことと区別されるべき価値があります。

前項では言葉の生存において「価値あること」は「ヒトに使われること」であるとして用いました。しかし、ヒトに使われるためには、ヒトにとって「価値ある」必要がある、とも言いました。これはヒトにとっての「価値あること」とはなにかを回答することを先送りにしたに過ぎません。また、「ヒトが区別できる色」とも言いましたが、ヒトがなぜそれらが別々の色であると区別できるのかということにも沈黙してしまいました。

 

また、「色はすなわち区別である」ことさえ示せば、一つ、最初の質問に対して結論を与える事もできます。すなわち、「なぜ区別できるのか」については触れず「区別できてるんだから区別できているんだ」としてしまう。そうしてしまっても、はじめに書いたような結論「どの生物も、僕も、君と同じ色を見ているが、それぞれの生物がに別々に感じている”色”という概念は存在しない」を与える事もできます。

 

色を区別する

「色の区別」について考えてみます。ヒト以外の生物にとっても、色は区別される必要はあります。彼らは言葉こそ使わないものの、色と色を区別し、おそらく色彩豊かな世界に生きています。色の名前でいったとおり、色の本質は区別に他なりません。ある色を他のよく似た色と区別できるかどうかを確かめる方法は、一つには解剖学的に目の組織を観察すること、もう一つには心理学的な実験を行うことがあります。二つ目の心理学的な実験というのは、色を区別しているかどうかによって生じる幾何の認識の差を利用したもののことです。ヒトの色覚検査では、次のような図を用いて、背景と異なる色で書かれた文字を認識できるかによって色の区別がついているかどうかを確かめます。

色覚検査に用いられる図の一種。石原表と呼ばれる。(臨床的色覚検査法|色覚外来|滋賀医科大学 眼科学講座より引用)

この色の違いによって浮き上がってくる文字が読めれば、とうぜん色の区別がついているということになります。動物は文字を読めないので上の実験では色の区別がついているのか分かりませんが、同じような発想で、まあ何らかの幾何的差異を用いて実験可能だと思います。

物理

うっかり、ここまで物理学による色についての説明を完全にサボってきました。「光とはある領域の波長の電磁波のことであり、波長なんとかnmから~~」というおきまりの説明のことです。この定石を無視したおかげで上の実験、とくに一つ目についてきちんと説明ができなくなりました。ごめんなさいまた、これ以降もヒトや他の生物が光から得られる情報を、具体的にどのように処理しているかには言及せず、「色が区別できる」ということについては、二つ目の種類の実験、簡単な色覚検査で区別される色に限定して話をします。そのため、光の三原色やその合成については完全にないものとして扱いたいと思います。

 

しかしながら、上の実験により色の必要条件たるその区別の存在することについては確認できます。

 

妥協

さて、ここである一つの結論が得ることもできます。ここまで長い旅でした。もうお疲れでしょう。ここで妥協してもいいかもしれません。私達は、まずはじめに、「色が分かるとはなにか」という問いを掘り下げ、「〈私達の感じる色〉を外的対象そのものの性質に帰属する根拠がない」ことがわかりました。次に、色を「感じ」(クオリア)として捉えたとき、それ自体をそのまま扱うことが極めて難しく、曖昧さやその検証不可能性によって、その捉えかたがおそらく不適切なアイデアであるということを説明しました。次に、色の名前に注目し、色の本質が差異であることが示唆されました。以上だけによっても「どの生物も、僕も、君と同じ色を見ているが、それぞれの生物がに別々に感じている”色”という概念は存在しない」という考えに納得はしていただけると思います。ここで一区切りにしてもいい。ここまで長く、稚拙で退屈な文章を読んでいただきました。もう飽きられていてもおかしくないです。飽きてください。「生物はなぜ色を区別できるのか」という問いには「区別できているのだから区別できているのだ」と、ある種の思考停止をする。それでもいいじゃないか。結論は得られるのだから。

次がある

しかし、「生物はなぜ色を区別できるのか」もとい「生物にはなぜ視界が存在するのか」「君はなぜ世界を見ているのか」という問いに進化論を持ち出して正面から答えていくこの先の過程こそ、僕の最大の興味領域であって、これまでの退屈な議論とは比べ物にならないほどの本当の面白さがあります。もしかしたら質問者さんが知りたかったのはこっちだったかもしれない。少なくとも文中の「価値」について説明しなくてはなりません。いずれ続きを書きます。が、今回はここまでにさせてください。疲れました。つたない文章をここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。