これまで人生を駆動してきた動力のようなものが機能不全に陥ってしまっているようだ。何事もやる気が起きない。これまで何を必死に生きてきたのかさっぱりわからない。過去の自分にまるで共感できない。
例えば俺は浪人をしていたころから熱心に日記をつけていた。日記と言っても俺の生活は万年破滅しているし、精神も万年破滅しているのでひたすらに湧き出る感情を適当に因果づけて紡いでいくようなもので、この世に満ちる理不尽な事象とそれを引き起こした己自身の理不尽な欲求の存在を鑑みれば、その手の文章の終盤は全く悲惨で続く言葉がなくなるものであり、罫線を無視した叫びのような文字の羅列が断末魔となるわけであった。狂人日記あるいは地下室の手記といった陰惨さであるが、ともかくそういったものをほぼ毎日熱心に生産していた。このようなゴミであっても、思い返せば日記を書く時間は僕にとっては思考の整理、記録であり一日にかたをつける作業というより、一日を送り、そうして得た記憶のキャッシュが睡眠を経て取捨選択(これは全く俺の自由意志に基づかない)され脳に定着する前に、その日発見した真理(どんなに些末なものであっても!)をシリアライズする、そういったことに意味を見出していた人生にとって言えば、これ自体があらゆることの目的であったかもしれない。ところが最近はてんで日記を書いていない。
真理といえば俺は大学に入ってからというもの勉強ばかりしていた。これまでずっと勉強ができることがアイデンティティだったタイプの人間では「ない」。浪人中に目覚めちゃったタイプの人間である。関心領域は広かった、わけでもない。今でこそロゴスエブリウェアと標榜し「俺は世界のいろいろな知に関心があるのであってなにかの専門家になりたいわけではない」と異自認しているわけであるが、当時はそれほど明晰に思っていたわけではなくて、とにかくいろいろな分野の知を知りたかった。そうやっていればいずれ「本当のこと」を知れる気がしていた、多分。本当のこと?
2020年は株をやっていた。株は楽しかった。この世界の写像であってまったく予想の困難な株価を相手にあらゆる道具を駆使し、自分の判断のみで勝敗が決する。そう、自分の判断や理論・思索の正しさが直ちに明らかになり、さらにその結果その人の資産の増減を決する。敗者は市場から去るほかない。一方、例として学者を上げてみれば、連中の知的怠惰は構造上の問題であるとわかるだろう。トレーダーとして生き残り、市場を相手に搾取を続けることは何より魅力的であった。しばらく株式をトレードしたあと、仮想通貨を始めた。それからすぐに、ネット上で出会った男とともに仮想通貨を自動で売買するbotterを目指した。男ははっきり言って冴えない人間で、私がメキメキ知識をつけバリバリに研究しガシガシコードを書くようになると議論にぎこちなさが見えてきた。それでも他人とプログラミングをするのは楽しかったし、何より統計的なモデリングの知識やプログラミングといったスキルや自分の強い好奇心と無謀さが完全に調和するこの営みに心底惚れ込んでいたため、自分をこの世界に入れ込んだ恩人が無能であることなど気にせずシコシコしていたわけであるが、無理があり一人でやることにした。一人でやってみた結果、はっきり言ってかなりうまく行った。恐ろしいくらい儲かった。完全に人生上がったつもりでいた。「本当のこと」はこのときに見てしまったのかもしれない。君たちは人生上がったことがあるか?秒速で1億稼いだことがあるか?(俺もないぞ)。俺は人生上がったつもりになったことがあるのでその時の気持ちを教えてあげるが、まず資本主義社会における最高の自由を得てしまったわけなので、自分がなんのために生きているのか考える必要がある。思いつかない。つらい。これまでの人生を回想してみる。そうすると自分の人生の浅さ、非本質さ、楽しくなさに一通り絶望することになる。俺は全く自分の享楽について無関心で、知や性を貪り脳汁におぼれて生きてきた事を自覚した。俺の人生には愛がない。俺の生まれはマジで最悪で、常にここを抜け出したいと思っていた。言ってみれば生活を愛していなかった。好きなものなんてなかった。この人生で満足するわけにはいかないから、享楽をもたらすものを愛するわけにはいかなかった。「本当のこと」を知りたかったのも「人生上がりたかった」からである。俺に知的好奇心旺盛という享楽の言葉は似合わない。一刻も早くこの世の心理を知って悟りたかった。それは悲惨な所与からの脱出である。ああ、辛くなってき

可読性日記20190914

俺は何をやっているのだろう。眠い。早く寝たほうがいいし、眠い時に人に見せる文章を書かないほうがいい。そうじゃなくて。多分数学を勉強している。分裂があるから。どちらにつくにせよ数学は使うだろう。数学は、線形代数とか解析学とかそういう話ではなくて、こないだの可読性日記の学問の分類でいえば①哲学に属する類のやつである。アカデミックなことに目を向ければこうなってしまうのだが、実際僕には何か恵まれたものがあるわけでもないしきっと研究者になることはないのだと思う。でもこれは本気で思ってるわけではなくて、「では就職あたっての数学ってなんだろう」という話に変えて趣旨を伝える、的なレトリックである。
では就職にあたっての数学とはなにか。そもそも就職するものにとっては分裂が前提となっている。特定の学問をやりたくて、あるいはもっと具体的な木曜をもって研究者になる人はたくさんいると思うけど、就職を目標に就活する人に限って言えば(教師や医師などの大学でそもそも専門性が定められている人は除いた。けど彼らは一足先にわずかに未熟なうちに似た分裂を経ていると思う)そもそも分裂の塊である。就職を目指す彼らは、何をやっているのだろう。就活とかいうのでは自己分析とかいうのをやらされるらしい。自己分析、不穏な響きがある。本当の自分とは何か、自分は何をしたいのか、自分には何が向いているのだろう。こういう切り口で己の分裂をいくばくか目の粗いものに統合して、それからリクナビになんかいろいとするんだろう?しらんけど。就職斡旋業者はこうした作業をたくさんの会社から請け負って、それから学生に自己分析させて、マッチングさせるわけじゃないですか。こう考えると自己分析が果たす役割というのは、自発的な内面との向き合いとは毛色が異なってくる。いかに自己を分析するか。そしてその能力こそ普遍的に求められているのではないか。どちらに行くにせよ自己分析能力が求められる。彼らにとっての数学は自己分析能力かもしれない。彼らはどうやってその能力を鍛えるのだろう。内面との向き合いの訓練をするのだろうか。かもしれない。でももっとぴったりくる言葉あるじゃん?インドガンジス川の旅。ヒッチハイク。自分探し。
俺はこういう連想やアナロジーを用いた文章の悪質性を何度も指摘しつつも、こうやって、俺は。ああ。いいかい、つまり、ぼくは、おれは、分裂している。

可読性日記20190906

追記:



ここ数日進化心理学ツイッター上で話題になっているように感じる。この記事が話題になったからなのかな。
進化心理学はなぜ批判されるのか? - 道徳的動物日記
もっと長い目で見た関心の高まりもあると思う。僕は進化心理学アンビバレントな感情を抱いている。これはたぶん進化心理学の「進化」の部分への賛意と「心理学」に対する不信や嫌悪によって生じる居心地の悪さが一因かと思う。僕はドーキンスデネットが展開する世俗的な進化論的な哲学が大好きだし、彼らが物事を考えるように俺も物事(といっても僕は引きこもりだから、インターネットの話題がほとんどである)を進化論的にとらえようと努力している。「進化論的に」という言葉はおそらく語弊がある、あるいは「進化心理学」の「進化」とは違う何かを指している、と、主張したい。そう、ここの差異―僕が日夜考えている「進化」と進化心理学の「進化」決定的差異―これがはっきりと表現できずにいる、が、これはたぶん本当は「進化」の違いではなくてもしかしたら「心理学」の違いなのかもしれない。文章を書いていたらそんな気がしてきた。言い換えればこれは「Why」に対する応答の仕方・態度の違い、とも言えるかもしれない。まあまあ、まずは進化心理学を腑分けする。そもそも―これは僕の偏見だが―学問は大体以下の5種類に分別できる。①哲学②歴史③教育④工学⑤芸術⑥思想 ③,④,⑤,⑥は置いとく。非自明な区分けなので説明する。①は真理追及の学問分野が入る。例えば物理学や数学とか、倫理とか(ここには突っ込みが入りそうだが)普遍的で、おそらく宇宙人も同じように発展させているるであろう、いや、こう言ってみよう。可能な世界では異世界であってもきっと通用するような学問である。②は事実の記述の学問である。だから、実際に起こっているかどうかが重要。ここで①との違いを意識する。つまり、①は実際に起こっていないことも考えられるし、(極端な例を除けば)実際に起こったかどうかなんてどうでもいいのだ。しかしながら①は②をするうえで欠かせない。①の普遍性に注意する。アウシュビッツってあるじゃん。あの、ナチスのさやべえやつ。あとさ南京大虐殺とか、朝鮮人慰安婦とかこういう具体的な事件が起こったかどうかって②ではすごく重要だけど、①ではぶっちゃけどうでもいい、どうでもよくあるべきなんですよ。アウシュビッツがあったから人種差別はダメとか、そういうのは理屈になってない。アウシュビッツがなかった世界線も存在するはずだ。その世界の住人も納得できる倫理を作ってくれさい。実際に起こったかどうかに、倫理には存在していてほしい。

なんの話をしていたんだっけ。そうだ。進化心理学。そうだった。まあ哲学と歴史の区別については永井均のこのツイートでだいぶ明確になったから、ここまで駄文に付き合えた諸君の理解のために掲載しておく。

進化心理学は実際には全学問領域にまたがっちまうポテンシャルがあると思う。それは精神分析学が全方向を汚染していったことと似ているかもしれない。

さて、僕は「Why」への答え方で、連中と俺様の間に線を引いてやろうと思っていた。

ここで、至近要因にはおおむね同じように答えるであろう、としておく。問題は究極要因のほうである。その前に一応至近要因と究極要因の違いをざっくり説明しておく。両者とも「Why」にこたている体裁ではあるが、実際には前者は、「How」にこたえているといえる。「どのようにしてあなたは孤独を感じるのか」"How you feel your loneliness"である。実際に孤独感を感じているときに何が起こっているのか。これが至近的だよねっていう。後者はWhy、なんかほかの言い回しが欲しいよね。そう、そのために究極要因なんて大げさな言葉があるんだよね。究極、「なんで私は孤独感を感じなきゃいけないの?」(「感」が被って頭痛が痛くなった人、この表現は誤りではないので)「それはね、昔々孤独感を感じなかったボケナスが子孫を残せなかったからよ」。この究極感が伝わってほしい。感じてる?究極感。俺は微妙。だって、孤独感はきっとそれ以外の方法でも獲得されえるから。意味が分かんないよね。ごめん。これから説明する。孤独感っていうのは、実はすごくぼんやりしてて、たぶんいろんな感情の組み合わせなのではないかな、と思うの。還元主義っていうんだけどね、こういうの。だから、その孤独感を構成する感情群が、必ずしも「孤独感」として獲得された、とは言い難いってこと。いくらでも別の説明がつけられるの。どうでもいいんだわ。実際にどうだったかなんて。

だって俺はどんな世界でも通用する学問、哲学が好きで、歴史が大嫌いだから。いいかい。いいんだ。たぶんさ、このやり取り、つまり、孤独感を感じる理由を誰かに尋ねるって営みはさ、つまりこうじゃん。お母さんと息子がいます。「孤独すぎつらすぎわろた。なんか意味あんの?」「それなしじゃ友達ができなくて、いざというときに大変よ!」みたいな。伝わる?要は教訓なわけ。教訓。文字通り疑問に思っていて、実際にどうなのか知りたいとかじゃなくて、慰めてほしいわけよ。カウンセリングの一環。たぶんね。たぶん。全部俺の妄想よ。でも実際こうだと思う。実在するならね。アヤシイ歴史をこういう教訓に使って欲しくないっていうかさ~。いいじゃん「友達ができなかったらいざというとき大変だよ!」で。間違ってないんだもん。進化心理学のテキトーな説明と違って。偏屈なガキだったら別の歴史を思いついて、論破しにかかるぜ。おいボウズ、哲学の才能があるな。哲学の立場ならむしろ友達づくりのインセンティブっていうほうが、うれしいわけ。歴史とか、無意識の過程とか、そういう真偽不明なうえにどうでもいいものに言及しなくて済むから。んでさ、こういう答え方の態度の違いって、別に心理学の中にもあるよねっていう。

俺は欲求って言葉が嫌いで、なぜかって~~欲求って~~したいです!ってだけじゃん。言い換え。なのになんかこう。あたかも具体物になりました!みたいなつらしやがって、ゆるせねえ。伝わってほしい。この差異。もう眠いから。ようは俺は進化の「歴史」にはあんまり興味がなくて、進化をつかって何ができるか、ようはまず物理学をやって、次に工学をやるようなそういうイメージ。だから、まあ、いいよ。好きよ、しんりがくの中では進化心理学。でもさーやっぱり俺はこうやって究極要因とかいって歴史を紡いでみても世の中の役に立たないと思うんだ。役に立つとしたら、そうだな。もっとアヤシクて世の中をだめにするようなほかの歴史をテキトーに黙らせられること。そんなもん。だけど歴史は嗜好品でいてほしいんだ。アウシュビッツがなくても人種差別はよくない。民族主義はよくない。アウシュビッツがあったかなかったという論点は、本当は、ないほうがましだ。だって人種差別がいけないってことは別の理屈が支えてくれる。頼むから歴史認識でそこをごまかそうとするようなすきを見せないでほしい。そういう気持ちが、哲学よりの進化論大好きマンのなかにあります。民族主義や人種差別を本当によくないと思っているわけではありませんが。

あとさ「本能」。あなたがなになにしたいのはそれが「本能」だから。ってやつ。たわけ。たわけが!これも実は広義歴史的論法なのよ。男のキモい浮気だとか、女の偉そうな男の選別だとか。本能よ。うん。これはさ、たぶんマジでこれ自体として進化で獲得された戦略だと思う。みんなの頭にデフォルトで備わってると思うよ。だけどさ~~~~~いいんだ。ちげえんだよな。子供を産むコストが低い男と高い女がいます。なので、男はたくさんの子供を作ることができるのでバンバンセックスしたがるけど女はそうはいきませんね。はい。はいラマルク的。誤り。馬鹿か。何言ってんねん自分。これじゃなかった。なんだろう。これはいいか。進化心理学のほうがましだ。とりあえず進化心理学に任しておこう。とりえず。志向がまとまるかと思って書いてみたけどあんまりだった。でも多少はまとまったかな。あ、あと自然主義的誤謬、いいえ、ヒュームの法則にだけ触れとく。これはね、ようはこれまで君の遺伝子がこうなっていて、こういう風に行動するようプログラミングされているんだ!だからこうするべき!ではないから。人生は子供を産み、養育することが目的じゃなくてもいい。遊びまくっていい。女!セックスは最高に気持ちがいいらしいぞ。俺は女じゃないからわからんが、たぶん気持ちがいい。セックスしまくれ!俺たちは自由だ!避妊と、病気には気をつけて。セックスしよう!俺と、セックスしよう!してくれるかたはツイッター・DMまで

合格発表がこわ、くもない。三回目なので

平成最後の受験生諸君およびその周囲にいる人々に置かれましては連日の国立大前期合格発表を受けどんな気分でお過ごしでしょうか。これは決して単なる文頭の挨拶ではなく、実際にどんな気分でいるのか興味があるのだ。他人の合格発表に際しての気持ちである。僕は三年連続で受験生で、自分とは一切関係ない合否発表の期間を過ごしたことが、ない、わけではない。それは3年以上前、名前も顔も知らない高校の先輩たちという他人の中でもそれなりに他人な連中の合否発表、そして彼らが大学進学あるいは進学準備と進路を決する場面を見ることはあった。しかしその当時まったく受験に興味はなかったわけで、この時期の受験生がどのような思いでいるのか、その深刻さなどは全く知らないわけだから、非当事者として、傍観者としてはいささか不十分であった。そもそも他人の合格発表に際しての気持ちが、自分が受験生であるかいなかに影響されるものなのかはわからないのだが、僕は深刻に影響されると思っている。それは判決を待つ被告が時事を見ることや病人が同じ病室の患者の病状を見ることが、一般大衆のそれや見舞いに来た人間のそれとは異なることと同じである。なお現在の時刻は午前3時。安いワインをあおりながら中途半端な眠気をいなしつつパソコンカタカタしているので文章はいつもにまして終了していると思われる。そこらへんはいいかんじにご容赦いただきたい。これから自分の発表があるとなると、他人の合格発表に対してやはり曖昧な態度をとってしまう。自分と重ねてみたり祝ってみたりと一喜一憂さらにはちょっとした嫉妬の感情を抱いてみたりするわけなのだが、そのいずれも結局どこか振り切れたものではない。なにせこれから自分の発表があるのだ。他人の合格発表に精神のリソースをつぎ込むべきではなくて、感情の揺れ幅は小さくなる。これは傍観者として不適切である。よって他人の合格発表は僕の興味のある心境をお持ちの皆さんとは大学生の君たちである。あ、先輩なので敬語使っときますね。使わねえよボケ。……風呂敷を広げたが眠いので寝る。明日の発表がこわ、くもない。三回目なので

ツイッターのアカウントを消した

つらい。誰も見てないだろうから書く。誰かが見えるところに書いたという事実が欲しいから書く。とにかく精神が限界になってやめた。精神などというものは存在しない。脳とその他の臓器を隔てるものはせいぜいニューロンの利己性くらいであって、基本的に等価だ。胃に精神が存在しないなら脳にも精神は宿らない。脳の働きを我々は知らない。消化器官がいかに食物を処理し、血液がどのように循環しているのか知らないように、少なくとも直接的には、脳は不可知だ。脳は脳を知ることができない。しかし、確かに胃が満たされているときに感じられる満腹感があり、手のひらを太陽に透かしてみれば血管は見える。我々は、我々自身ををあくまで間接的にのみ知ることができる。これは科学の進歩とは関係ない。いくら科学が進歩して、分子レベルで人体が解明されようとも我々は我々の身体を知ったことにはならない。人類が作った道具のうち、原理が不明なものはない。誰かが意図して作り上げたからだ。それらの道具がいかに働くかは、知ることができる。反面、人体は誰の意思によって組み上げられたわけでもない。脳もそうだ。精神は、俺が精神と認めるそれは、灯りに照らされた「何か」の影、そう、洞窟の中の影であって、我々の意思の主体であったり、感覚であったりの本質たる「何か」ではない。すなわち、精神が限界になったとはあくまで俺の感覚であって、実際に精神が存在し、精神が限界になっていることを意味しない。ただこの感じ。俺が今感じていて、おそらくこの語彙が適当で可読性があるだろうという中で選ばれた感じ、焦燥感・不安感・自分が自分の思うように動かない感じ・嫉妬・世間が狂っているように見えて、不愉快で、それでいて力の及ばないことの無力感、その力の及ばない感じが肉体、それから“精神”にまで伸延して、俺ではない、精神すら俺ではない。今すぐに辞めたい、ここから出たい。どこに行く?ここではない、どこかへ。そういう気持ちがこもっている。精神が限界だ。

 

受験が近いというのが、精神が限界な理由として挙げられるだろう。二浪だし。秋の模試も芳しくなかった。今から何をしようも、実はまだ遅くはない。三度目の受験だ。これからどれだけ追い上げがあるのか、知っている。こうやってブログを書かずに化学のろくでもない知識と英語の発音アクセントの法則を叩き込めばいい。過去二回やったようにだ。それから演習をしておけば、まあセンター試験は乗り切れる。二次もまあ、これから演習を繰り返せば、つまり、これからわずか二ヶ月間という、人生に比せば僅かな時間を捧げれば、まあ受かるだろう。去年もそう思っていて、落ちたわけだけど。何が問題かといえば、これからわずか二ヶ月間を捧げることにすらなにか抵抗を感じることだ。受かっちゃえば勝ちなのに、勝ちなのに、それでも俺は勉強から逃げている。何に勝つのかは知らんけど。今だって、こうしてパソコンの画面の前でぼんやりした顔で目だけ何かをにらみながらガタガタとキーボードの打鍵を、暖房の効いた、しかし空気清浄加湿器によっていい感じの湿度に保たれた澄んだ快適なはずな自室の空気にガタガタと響かせている。やめたい。やめたい。でもやるだろう。きっと俺はこの二ヶ月を虚無に捧げる決心をするために文章を書いている、のかも知れない。白状しよう。俺は受験生ではない。では何?少なくなくとも受験生ではないし、これまで受験生だったこともなかった。

受験生が不定愁訴で医者にかかれば、まあ十中八九受験のストレスのせいにされる。医者は元々ガリ勉の受験生、あるいは僕のように怠惰で、それでもなぜか受験と大学に何かを期待したのか、あるいはそれ以外を否定したのかしらないが、とにかく元受験生だった人で、つまりは受験生の辛さとストレスなる謎概念で諸症状を説明できると信じている人間たちだ。それが実際のところどうなのかは知らない。なぜなら俺は受験生でないのにもかかわらず、受験から解放された試しがないのだ。受験をやめたい。それはそう。でも俺は、もっと他の、ここに書けばきっとしばらく囚われの身となるであろう悩みだとか、ここに書いたとて解決しようのない過去の、今の、これからの、家庭の問題もある。でも、これらは書かない。書いてどうするんだ。しかし書いてどうにかなるものがあるのかと問われれば返す言葉もない。ならば、これらは書きたくないだけであって、書きたいものを書いてるとしか言いようがない。書きたいことを書く。書いている。

 

今になって辛くなってきたことと言えば受験が迫ってきたこと以外に、当然他の問題もある。クリスマスが近くなった。俺の中のクリスマスと外のクリスマスがあまりに不均衡で辛くなってきた。今まではその浸透圧に釣り合う圧力ないし体内のクリスマス濃度を上げる余裕があったが、もう無い。そう、余裕がなくなってきた。余裕とは、つまり最低限度の文化的な生活以上を望むことであって、平均以上で、つまり社会が保障しないやつだ。それを持つかどうかは自由であって、単にオプショナルで、つまり本当はなくていいという「ことにされている」もの。それを持つための対価たるは金銭に代表されるだろうが、それ以外にもいろいろある。極端に言えば生存以外の全てはそこに含まれる。何もその気になれば換金できるもの、あるいは直接的に経済的利益をもたらすものだけではなく、それは肉体、精神の内部のみで完結するはずのものにすら“余裕”は見出される。その線引を生存に置くのは、すこしやりすぎた感じもある。生活、これにしよう。食い寝て風呂に入り、そういう、つまりは最低限度の文化的な生活だ。これはやれる。これだけやって、終わりだ。あえて加える。多分受験勉強も加えられる、ギリギリ。俺にとっての生活が受験勉強とともにあるとする。その上で、おそらく可能だ。本当に受験勉強だけすることには、本当は余裕など必要ない。受験勉強は受験勉強に完結する。俺に関わってこない。俺が受験勉強をしようがしまいが、受験勉強はあるようにある。受験勉強は俺に興味がない。受験勉強は受験勉強をしたいときだけ意識される。無機的。これはいいことだ。俺の肉体的精神的リソースを占有しない、おまけに時間も過ぎていく。いいことだ。いいことに違いない。これからの二ヶ月間が楽しみだ。ファックユー天安門

 

まてまて、俺がしたこととはツイッターのアカウントを消したことだ。決して精神が限界になったわけではない。なぜツイッターから離れたくなったのか?失恋ではない。本当に。本当だぞ。受験勉強は余裕を消費しないと書いた。余裕を消費するものがツイッターにはある。ロゴスだ。ロゴスがいらない。正確に書こう。悪いロゴスが俺の余裕を削る。ロゴスは操作可能で、脳の、精神の伸延だ。理性の伸延、かも知れない。他者の理性の結晶、それは文章。俺の脳はどうも、他者の理性と自分の理性を見分けられないらしい。絶対的な真理が存在し、それを見出さんとするものこそロゴスだ。ロゴスは共有可能らしく、文章を媒介に君のロゴスが、ツイッターを媒介にウン万人のゴミカスのロゴスが俺の精神の樹の枝の最も柔らかい先端にいざ析出せんと大群で流れ込む。もう、俺の余裕をそんな偽物のロゴスに捧げるのは御免だ。ツイッターのゴミクズどもの言ってることはほぼ全てが間違っている。ほぼすべてが、間違っている。前提が誤っている。言葉が間違っている。浮足立っていて、一見論理的であっても、実際はあやうい曖昧な区切りを都合よく運用しているゴミだ。AIとIoTで全てが解決すると思っているクソジジイと同じだ。水素水の抗酸化作用を信じる四十路のババアと同じだ。神を信じ、世界が神に造られたと思って生きている古代人と同じだ。こういう完全に誤った前提を無条件に信じる連中と話が通じる訳がないだろう?こんな連中の文章なんて見るだけ身体に、精神に毒だと思わないか?俺の貴重な“余裕”を奪っていく。俺の精神を正しく、つまり、俺の理性をロゴスと同一視するために、俺は余裕を消耗していた。クソが。クソが。この際だから言おう。連中は自虐すら満足にできていない。奴らが万の理屈を並べて自分自身を卑下しても、それら全てが間違っている以上、単に俺にそれを訂正したい気持ちをムラムラと湧かせるだけだ。自虐風自慢、ということではない。自慢する意図があるかどうかはさておき、とにかく前提、そして何もかもがおかしい自虐というのがこの世には存在するらしい。卑屈、そう卑屈なのだ。いや、連中は卑屈なだけではなくて、肝心のところには触れない卑しさがある。やつらは、本当に卑しい、奴らの最も醜いところには触れない。仮にそれが明らかに原因であっても、そこには触れずに、しかし生じた問題を説明しようとする。だから自虐に無理が生じる。別に卑下すべきではないところを自虐する。あるいは全く意味不明の自虐をする。だから卑屈にも見えるし、だけどそれ以上に、フェイクなのだ。これだ。お前らはフェイク。俺がリアル。

 喩え話をしよう。医者と患者がいる。患者はあれこれと症状を訴える。医者は統計的に優位で実際にその症状を解決する方法を知っている。しかし患者は祈祷による治療を要求してきた。邪気が溜まっているとかなんとか言って。いいや、違いますよ患者さん。と、まあ医者が患者と向き合っていればそう諭すだろう。では、この患者が、患者ではなくて、TV番組だったら。つまり、医者が、「がんは邪気から」というトンデモテレビ番組を見たときの気持ちはどうだろう。「がんは邪気が原因。邪気はあなたの心から自然に生じる醜い汚れです。これをうまく処理できないとがんにもなる。」テレビ局とスポンサー企業にクレームを入れるだろうか?学会に報告するだろうか?この番組が単にイカれていて、翌日には良識ある人々がSNSでボコボコに叩いていれば希望はあるだろう。バカバカしい。無視するという選択肢もある。だから初めのうちは、医者にもそれを無視する余裕があった。しかし、どうもみな邪気の存在は確かに感じるらしい。邪気理論に基づいた邪気医学が世間に受け入れられる。ゴールデンタイムの祈祷バラエティ番組が「がんを治すためにはこの神聖な柊と大豆の枝と鰯の頭でできた冠を必ずつけてください!この冠には邪気をウンタラカンタラ」と言っていたとする。そして翌日出勤すれば患者がみな冠を被っている。どいつもこいつも邪気の話をしている。帰りの電車の中吊り広告には呪術医の広告から『邪気のあるひとの10の特徴』とかいうタイトルの本の広告まで。そして学生時代の友人も、家族も!昔の恋人も!みんな邪気のことを気にしている。テレビ番組では呪術医が崇められ、本屋には邪気理論関連書籍が面陳されている。ツイッターではみな祈祷の方法について議論している。極めて体系化された邪気医学に基づいてみな思い思いに議論をする。邪気医学によれば、人間が生まれながらに生産能力をもつ邪気はがんだけではなくて、ありとあらゆる疾患から、人間関係の悩みまで、全ての原因になっているらしい。だからみんな何があっても「邪気が云々」と説明する。「あーあ、物理数学の単位落としちゃった。邪気溜まりすぎてた。」「邪気が溜まってる人は顔に出るよね。邪気隠しメイク!」「汚職政治家は邪気まみれ?気になる邪気量、邪気歴、身長は?」「衆議院では邪気者収容法が可決され……」「ジャキハラが問題に」「邪気生産力はほぼ遺伝!」邪気邪気邪気ああああああああああああああああああああああ。終わりだ。どいつもこいつも邪気医学に基づいた話をしやがる。違う。違う。違う。邪気なんて、邪気なんて。違う。祈祷なんて効かない。邪気が問題なんじゃなくって、それぞれ違う解決法があって、ああ、でも誰が俺の話を聞くだろうか。西洋医学は分かりづらい。実際に機能するとて、理解するのは難しい。祈祷で追い払える邪気と違って論理的に説明することの難易度が高い。だからみんな邪気医学は論理的だと思ってる。西洋医学に基づいた話をするとtoggeterにまとめられて赤字のコメントとはてぶにボコボコにされる。「きっと邪気が溜まっているから西洋医学なんかに傾倒するんだろう」ってな。そして民衆は邪気理論に基づいた自虐をする。邪気が溜まっている人の特徴が自分にもあるってな。それでみんなで慰め合うの。「大丈夫だよ、『本当に』邪気が溜まっている人はね……。」

でもみんな心の何処かで思ってる。本当は邪気が問題じゃなくて、祈祷なんて効かないけど、でも、邪気のせいにすれば、邪気のせいにすれば……。フェイク

 

 

俺はツイッターのアカウントを消した。

スマホの共有メニューから登録できる英単語帳をSLACKとGASで作った

 

英単語をSlackに投げると意味を返してくれるSlack Botを作りました。

スマホタブレットで英文を読むときにわからない単語を調べたものの、その文章を読むために一時的に覚えたあと結局忘れてしまうという現象が起こりがちだったので作りました。ネット上の英語コンテンツで雑に勉強してる方や論文に載ってる専門分野の英単語だけは覚えたい人には便利だと思います。

 

備忘録のつもりで書いたのでSlackとGAS(GoogleAppsScript)の前提知識がない人には不親切な記事になっています。よく分からないけど使いたい人がいたら雑に教えてください。暇な時に追記します。

 

SlackのEventをトリガーにするやつでGASと連携して使います。

 

まずGoogleAppsScriptとSlackの設定をします。

SlackのEventSubscription機能を使うので、GASのアレをvarificationするところから初めます。

①GoogleAppsScriptで新規プロジェクトを作成し、以下のコードをコピペしてください。

function doPost(e){
//バリデーション用
var params = JSON.parse(e.postData.getDataAsString());
return ContentService.createTextOutput(params.challenge);
}

function doGet(e){
doPost(e);
}

SlackのEventAPIとGASを利用して、特定のチャンネルにjoinするとwelcomeメッセージを表示するBotを作ってみた|yuichi.komori|note

より引用させていただきました。

②プロジェクトを公開します。「公開」メニューで「ウェブアプリケーション導入」を選択してください。アプリケーションにアクセスできるユーザーは「匿名を含む全員」を選択してください。このとき表示されるURLを控えてください。

 

次にSlackの設定をします

 

③Slackで英単語帳専用に新たなチャンネルを作ってください。そこで動くSlackアプリを新規作成します。

④Basic Information でImcoming WebhooksとEvent Subscription、botを適当に設定してください。Event SubscriptionではReques URLを求められると思うので②で控えたURLを設定します。Imcoming Webhooksで得られる「Imcoming Webhooks」のURLは後で使うので控えておいてください。

上の設定が問題なく済んだらGASに戻り、GASの設定をします。

⑤以下のソースコードを先程のプロジェクトのコードに上書きする形でコピペしてください。

ソースコード

https://script.google.com/d/1NGP-YVhNl5NM8Q43a1SDqpT_x9g5qXYQzy5tJ6GKVQMX8gt4N8FgjYt_

 

 

⑥「リソース」メニューからライブラリを登録します。「ライブラリを追加」のところに以下の英数字列を入力してください。識別子は「SlackApp」に設定します。

M3W5Ut3Q39AaIwLquryEPMwV62A3znfOO

Slack BotをGASでいい感じで書くためのライブラリを作った - Qiita

より引用しました。

 

⑦「ファイル」メニューから「プロジェクトのプロパティ」を開いてスクリプトプロパティに以下の値を設定してください。

USER_ID →(Slackの自分のアカウントのUser ID)

参考:slackに参加しているメンバーのUser IDを調べる方法 - /var/www/yatta47.log

 

SLACK_ACCESS_TOKEN →(Slackのレガシートークン)

参考:Legacy tokens | Slack

 

SLACK_POST_URL →(Slack Imcoming web hookトークン;④で作ったURL)

 

 

⑧再度「公開」メニューから「ウェブアプリとして導入」を選択し、「プロジェクトバージョン」を「新規作成」にして公開してください。

 

⑨終了

 

 

 

 

qiita.com

色とはなにか①|質問箱

以下は次の質問箱でいただいた質問への回答です。本気で回答したら長くなりすぎたので昔作ったブログの場を使いました。

peing.net

https://s3.peing.net/t/uploads/item/eye_catch/98149652/09077120.jpg

 

大変おまたせしました。とても面白い質問だったので、頑張ってしまいました。少し長くなります。まずは結論から「どの生物も、僕も、君と同じ色を見ているが、それぞれの生物がに別々に感じている”色”という概念は存在しない」と考えています。あまり哲学的な回答には思われないかもしれませんが、愉快な質問の回答が退屈な結論に至るまでの、面白い過程を紹介します。なお随所雑な議論がありますがご容赦ください。(言語や物理学についての考察・参考文献がないなど)

 

赤は赤いのか?


「色が分かるとはなにか」。「なにが何色だと分かる」、とはどういうことか。かなり抽象的で分かりづらいですね。具体例で考えてみます。大体のものには”色がある”のでなんでもいいんですが、この手の議論で使われがちな「りんごの赤」を例にします。

「りんごが赤いとはなにか。」いやいや、その前に「りんごとはなにか」をはっきりさせないと。僕の想定するりんごとあなたのりんごに乖離があっては困るので。🍎←これです。🍏←これではありません。椎名林檎でもありません。🍎です……わざわざ確認しておいて恐縮なのですが、「赤いりんご」ときいて🍏を思い浮かべることはないでしょう。ならば「赤いリンゴは赤いとはなにか。」と言い換えれば齟齬がありませんよね。
では「赤いリンゴは赤いとはなにか。」「赤いから赤いんだよ。」全くそのとおりです。赤いものを赤く感じている。赤い感じがあるものが赤い。この赤くて丸い、甘い物体にはりんごという名前がある。故に「りんごは赤い」わけです。

赤い感じ

では改めて「赤いりんごは赤いとはなにか」

赤いりんごを想像してみてください。なぜ赤いのでしょうか……「赤いから赤いんだよ」と思いましたか?全くそのとおりです。赤いものを赤く感じている。赤い感じがあるものが赤い。そして、この赤くて丸い、”甘い”物体にはりんごという名前がある。故に「りんごは赤い」わけです。

 

ちょっとまってください。話はそれますが、りんごは”甘い”?りんごは本当に”甘い”のでしょうか?

例えば、まだ人類がりんごを食べたことがないその時、りんごは「甘い」のか?人類が絶滅してもなおりんごは「甘い」のか?火星人はりんごを「甘い」と思うだろうか?

 

りんごはひとりでに甘いわけではない。なぜりんごは甘いのか?りんごの何が甘いのでしょうか?りんごの中の甘み成分でしょうか?しかし、りんごに含まれる糖などの物質をいくら挙げてみても、そのどれもにとっても、「甘く」あるためには、ある人の口に入れられ、舌に撫でられ、味覚に感じられ、その人の脳に「甘い感じ」を生じさせ、「甘い」と言ってもらわなくては「甘く」なれません。りんごは人に食べられ、「甘い」と言われててはじめて「甘く」なるのです。

となると、りんごに備わっているものとは、「甘さ」ではなくて、〈りんごを食べたときに感じる「甘い感じ」を人に生じさせ、「甘い」と言ってもらえる性質〉であると言ったほうが自然でしょう。逆に言えば、「甘い」の正体とは、りんごそのもの、あるいはりんごが含む甘味成分(なんらかの糖)や人工甘味料というような具体的な物質ではなく、あなたの内側である脳内に生じる「甘い感じ」という極めて内面的なものであるといえます。それにもかかわらず私たちは、その〈内面で生じた「甘い感じ」〉を〈自分の外にあるりんごそのものの性質〉であると思い込み「りんごは甘い」と言ってしまうのです。本当はりんごは甘くないのに。

なにが赤いのか

このように、人には〈自分の中で生じた感覚〉を〈外部の物体そのものの性質〉だと思い込んでしまう悪癖があります。これを「感覚を外的対象に誤帰属する」といいます。もう一つ極端な例を示してみます。セクシーな異性を一人思い浮かべてください。とてもセクシーな、そうですそう。とてもセクシーな人を。ぼくはとてもセクシーな女性を一人、一人思い浮かべました。とても美しい。あああ、そそられる。セクシー!エロい! いまあなたが想像している人は私が想像している女性とは、おそらく別人です。性別も違うかもしれません。しかしながら全く異なる両者について、私達は同じように「セクシー」という言葉を使って語り合うことができる。セクシーなその人のことを考えるとどんな感じがするか。セクシーなその人としたいあんなことやこんなこと。しかしながら、その二人のセクシーな人は同一人物ではないのです。もっと言えば、あなたがその人に見出すセクシーを、全く同じ人を見ても私は見いだせないかもしれない。それならば、なにが「セクシー」なのか?本当のセクシーとは?それは、少なくとも実際に存在する誰かに帰属される性質ではないでしょう。どこか、例えば理想郷には「本当にセクシーな人」が存在しているかもしれません。しかし、理想郷の存在は未だ確認されていません。しかしながら、「セクシー」が存在することをあなたは知っています。もう一度あの人のことを頭の中に思い浮かべてください。私も思い浮かべます。ああなんてセクシーなんだ!しかし、その人もまたいまは想像されているだけであって、目の前には存在しません。しかしながらあなたの脳は「セクシーな感じ」を捉えている。すなわち「セクシー」とはいかなる具体物に帰属される性質ではなく、あなたと私の脳の中に生じる「セクシーな感じ」。これこそが真に「セクシー」と呼ばれるべきなのです。



話がそれてしまいましたが、「感覚を外的対象に誤帰属する」という発想がどんなものかわかってもらえたと思います。本題に戻り、この「人は感覚を外的対象に誤帰属している」という発想のもと、「赤いりんごが赤いとはなにか」ということを考えると次のようになります。

 

「赤はりんごそのものの性質ではなく、正体は脳内で生じる『赤い感じ』である。その『赤い感じ』をりんごに帰属する。すると、赤いりんごが赤くなる。」

 

赤のクオリア

この『赤い感じ』『甘い感じ』『セクシーな感じ』というような内面に生じる「感じ」一般のことを哲学の用語ではクオリアや表象といい、『赤い感じ』を『赤のクオリア』と言ってみたりしているそうです。

クオリアという用語を用いれば、「他の生物は私と同じ赤を見ているのか」という問いは「他の生物は私と同じ『赤のクオリア』を有しているのか」という問いに還元されます。同じヒトという生物であるからと言って、私とあなたの脳内に同じクオリアが生じているなんて保証はどこにもありません。私とあなたは同じ赤のクオリアを持っているのか。「赤いもの」を見たときに同じ「赤い感じ」を感じているのか。当然こういった疑問も湧いてきます。わけがわからなくなってきました。「哲学っぽい感じ」なってきましたね(?)

やってられるか形而上学

一体どうやって検証すればいいのでしょうか?

何をもって同じように感じているといえるのでしょうか?クオリアがはっきり目に見えるか、あるいは数値で把握できさえすれば論の進めようもありますが、現時点ではそもそもクオリアの実在すら確固たるものではありません。私が赤をみたときに「赤い感じ」が生じることは、私だけが確認できます。他の人には分からないはずです。同じように、私には、赤いものをあなたが見ているときにあなたが本当に同じ赤い感じを感じているのかも分かりません。

「あなたは本当に赤を見ているのか?いや待てよ、あなたは本当に意識ある人間で、何かを感じているのか?ただ「反応しているだけ」であって何も「感じて」はいないのではないか?そうではないという保証はあるのか?私には本当は意識などないのではないか?私は、本当に「赤い感じ」がしているか?赤なんてもの実在していないのではないか?色は存在するのか?意識とはなにか?我思う故に我ある、のか?しかし私は本当に「我という感じ」を抱いているのか……?」となってしまい、人生が終わってしまいます。人はいずれ死ぬ。この意識の実在性の問題については、心の哲学のハードプロブレムと呼ばれていて、歴史上、何人もの哲学者が人生をかけてこの難題に挑戦してはそれらしい結論を与えるも、死後完全に誤っていたことが明らかになり、人生が虚無になってしまうなどしています。虚無の人生を歩まないために、実在不明のクオリアというアイデアは捨て、語り得ることだけを語る別の側面から色を考えてみることにします。

質問箱色

何色か?

突然ですが、この質問箱の画像のふちの色。これは何色でしょうか?緑?青?

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かなり際どいですね。これは緑なのか?青なのか?うう、いくら考えても分からない……青か?緑か……?人はいずれ死ぬ。こんなことを考えていても、やはり人生が終ってしまいます。しかし、なぜ分からないのでしょう?これは何色なんだ?とにかく、分かることは……例えば、この〈質問箱のふちの色〉は少なくとも〈りんごと同じ色すなわち赤〉ではない。更に、ツイッターのトリの色〉とも違う……!ここで妙案が浮かびます。この奇妙な色に名前を与え、「これは〈質問箱色〉である!」と言ってしまえばいいのです!ついでにツイッターの色にも名前を与えれば「〈質問箱色〉は〈ツイッター色〉ではない!」と言ってしまえる!!「〈質問箱色〉は青でも緑でもない!〈質問箱色〉だ!」

 

命名

こうやって命名してやる事によって、”無意味な”問いに困らされることがなくなり、おそらく人生が少しマシになります。しかし、わずかばかりのマシな人生の後、また疑問が一つ湧きます。湧いていなければ、湧いてもらいます。すなわち、「なぜ緑には〈緑〉という名前があり、青には〈青〉という名前があるのに、質問箱の画像のふちの色には〈質問箱色〉という名前がついていなかったのだろうか?」

 

答えはすぐにわかるでしょう。“無価値”だからです。〈質問箱色〉を質問箱以外で見かけることはまずないです。名前が付いていたって、こんな無意味な問いに答えることしかできない。不便な言葉です。だから今まで命名されずにいたんです。無価値です。

 



無批判に「無価値」という言葉を使ってしまいました。ごめんなさい。なぜ緑と青に名前があることには価値があり、質問箱のふちの色には名前があることには価値がないのか。「価値がある」の意味がまだよくわかっていませんでした。「価値がある」とはどういうことなのでしょうか?

名前のない色

「〈質問箱色〉は質問箱でしか見かけないし、使う場面といえば、その色は何色かと問われたときくらいで、普段つかう機会はない。それゆえに〈質問箱色〉と名前がついていることは無意味だ。」と言いました。これは暗に、その色は何色かと問われ、答えるときにはその色を指す言葉があることには価値があるということを言っています。〈質問箱色〉という言葉があるおかげで、あの色が緑でも青でもない色に見えるということを伝えられます。この観点でいえば「緑」という言葉があるのは「青」でも「赤」でもない色を指す必要があるから、ということになります。色がついているものは全部「色付き色」でいいのに、わざわざ黒だの白だのシアンブルーだのと別々の名前が割り当てられているのは、それぞれの色に「意味ある違い」があり、それらを区別することに価値があるからです。言葉は自然に発生したものです。神に与えられたものではありません。それゆえ、使われない言葉、例えば他の色と区別されることない色を指す言葉は消滅します。色を指す言葉が存在するためには、ヒトに他の色と区別してもらう必要があるので、当然ヒトの目が区別できない色に別々の名前がつくことはありえませんし、区別できるからといってそれぞれに名前がついてヒトに使ってもらえるとも限りません(たとえば質問箱色はツイッター色ではないと区別できるし、実はそれぞれ名前もついているけれど、誰もその名前で呼んでいない。)ヒトに使ってもらうには、ヒトに他のものと区別されることで利益をもたらす「価値ある言葉」でなければならないのです。

色とは区別である

名前のある色とない色の違いが、ヒトに区別する価値を認めてもらわなければならない。それ故に、色に名前が存在したりしなかったりするということはわかりました。これを、「色とはなにか」という問いに対する結論に……できません。実はまだ「色とはなにか」という問いに答えたことにはなりません。こっそり「色の名前が存在するとはなにか」という問いにすり替えて、それに答えました。ごめんなさい。しかし全く「価値がない」ことをしたわけではありません。この、言葉がいかにして生き残るかという議論をすることには、それをしないことと区別されるべき価値があります。

前項では言葉の生存において「価値あること」は「ヒトに使われること」であるとして用いました。しかし、ヒトに使われるためには、ヒトにとって「価値ある」必要がある、とも言いました。これはヒトにとっての「価値あること」とはなにかを回答することを先送りにしたに過ぎません。また、「ヒトが区別できる色」とも言いましたが、ヒトがなぜそれらが別々の色であると区別できるのかということにも沈黙してしまいました。

 

また、「色はすなわち区別である」ことさえ示せば、一つ、最初の質問に対して結論を与える事もできます。すなわち、「なぜ区別できるのか」については触れず「区別できてるんだから区別できているんだ」としてしまう。そうしてしまっても、はじめに書いたような結論「どの生物も、僕も、君と同じ色を見ているが、それぞれの生物がに別々に感じている”色”という概念は存在しない」を与える事もできます。

 

色を区別する

「色の区別」について考えてみます。ヒト以外の生物にとっても、色は区別される必要はあります。彼らは言葉こそ使わないものの、色と色を区別し、おそらく色彩豊かな世界に生きています。色の名前でいったとおり、色の本質は区別に他なりません。ある色を他のよく似た色と区別できるかどうかを確かめる方法は、一つには解剖学的に目の組織を観察すること、もう一つには心理学的な実験を行うことがあります。二つ目の心理学的な実験というのは、色を区別しているかどうかによって生じる幾何の認識の差を利用したもののことです。ヒトの色覚検査では、次のような図を用いて、背景と異なる色で書かれた文字を認識できるかによって色の区別がついているかどうかを確かめます。

色覚検査に用いられる図の一種。石原表と呼ばれる。(臨床的色覚検査法|色覚外来|滋賀医科大学 眼科学講座より引用)

この色の違いによって浮き上がってくる文字が読めれば、とうぜん色の区別がついているということになります。動物は文字を読めないので上の実験では色の区別がついているのか分かりませんが、同じような発想で、まあ何らかの幾何的差異を用いて実験可能だと思います。

物理

うっかり、ここまで物理学による色についての説明を完全にサボってきました。「光とはある領域の波長の電磁波のことであり、波長なんとかnmから~~」というおきまりの説明のことです。この定石を無視したおかげで上の実験、とくに一つ目についてきちんと説明ができなくなりました。ごめんなさいまた、これ以降もヒトや他の生物が光から得られる情報を、具体的にどのように処理しているかには言及せず、「色が区別できる」ということについては、二つ目の種類の実験、簡単な色覚検査で区別される色に限定して話をします。そのため、光の三原色やその合成については完全にないものとして扱いたいと思います。

 

しかしながら、上の実験により色の必要条件たるその区別の存在することについては確認できます。

 

妥協

さて、ここである一つの結論が得ることもできます。ここまで長い旅でした。もうお疲れでしょう。ここで妥協してもいいかもしれません。私達は、まずはじめに、「色が分かるとはなにか」という問いを掘り下げ、「〈私達の感じる色〉を外的対象そのものの性質に帰属する根拠がない」ことがわかりました。次に、色を「感じ」(クオリア)として捉えたとき、それ自体をそのまま扱うことが極めて難しく、曖昧さやその検証不可能性によって、その捉えかたがおそらく不適切なアイデアであるということを説明しました。次に、色の名前に注目し、色の本質が差異であることが示唆されました。以上だけによっても「どの生物も、僕も、君と同じ色を見ているが、それぞれの生物がに別々に感じている”色”という概念は存在しない」という考えに納得はしていただけると思います。ここで一区切りにしてもいい。ここまで長く、稚拙で退屈な文章を読んでいただきました。もう飽きられていてもおかしくないです。飽きてください。「生物はなぜ色を区別できるのか」という問いには「区別できているのだから区別できているのだ」と、ある種の思考停止をする。それでもいいじゃないか。結論は得られるのだから。

次がある

しかし、「生物はなぜ色を区別できるのか」もとい「生物にはなぜ視界が存在するのか」「君はなぜ世界を見ているのか」という問いに進化論を持ち出して正面から答えていくこの先の過程こそ、僕の最大の興味領域であって、これまでの退屈な議論とは比べ物にならないほどの本当の面白さがあります。もしかしたら質問者さんが知りたかったのはこっちだったかもしれない。少なくとも文中の「価値」について説明しなくてはなりません。いずれ続きを書きます。が、今回はここまでにさせてください。疲れました。つたない文章をここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。