ツイッターのアカウントを消した

つらい。誰も見てないだろうから書く。誰かが見えるところに書いたという事実が欲しいから書く。とにかく精神が限界になってやめた。精神などというものは存在しない。脳とその他の臓器を隔てるものはせいぜいニューロンの利己性くらいであって、基本的に等価だ。胃に精神が存在しないなら脳にも精神は宿らない。脳の働きを我々は知らない。消化器官がいかに食物を処理し、血液がどのように循環しているのか知らないように、少なくとも直接的には、脳は不可知だ。脳は脳を知ることができない。しかし、確かに胃が満たされているときに感じられる満腹感があり、手のひらを太陽に透かしてみれば血管は見える。我々は、我々自身ををあくまで間接的にのみ知ることができる。これは科学の進歩とは関係ない。いくら科学が進歩して、分子レベルで人体が解明されようとも我々は我々の身体を知ったことにはならない。人類が作った道具のうち、原理が不明なものはない。誰かが意図して作り上げたからだ。それらの道具がいかに働くかは、知ることができる。反面、人体は誰の意思によって組み上げられたわけでもない。脳もそうだ。精神は、俺が精神と認めるそれは、灯りに照らされた「何か」の影、そう、洞窟の中の影であって、我々の意思の主体であったり、感覚であったりの本質たる「何か」ではない。すなわち、精神が限界になったとはあくまで俺の感覚であって、実際に精神が存在し、精神が限界になっていることを意味しない。ただこの感じ。俺が今感じていて、おそらくこの語彙が適当で可読性があるだろうという中で選ばれた感じ、焦燥感・不安感・自分が自分の思うように動かない感じ・嫉妬・世間が狂っているように見えて、不愉快で、それでいて力の及ばないことの無力感、その力の及ばない感じが肉体、それから“精神”にまで伸延して、俺ではない、精神すら俺ではない。今すぐに辞めたい、ここから出たい。どこに行く?ここではない、どこかへ。そういう気持ちがこもっている。精神が限界だ。

 

受験が近いというのが、精神が限界な理由として挙げられるだろう。二浪だし。秋の模試も芳しくなかった。今から何をしようも、実はまだ遅くはない。三度目の受験だ。これからどれだけ追い上げがあるのか、知っている。こうやってブログを書かずに化学のろくでもない知識と英語の発音アクセントの法則を叩き込めばいい。過去二回やったようにだ。それから演習をしておけば、まあセンター試験は乗り切れる。二次もまあ、これから演習を繰り返せば、つまり、これからわずか二ヶ月間という、人生に比せば僅かな時間を捧げれば、まあ受かるだろう。去年もそう思っていて、落ちたわけだけど。何が問題かといえば、これからわずか二ヶ月間を捧げることにすらなにか抵抗を感じることだ。受かっちゃえば勝ちなのに、勝ちなのに、それでも俺は勉強から逃げている。何に勝つのかは知らんけど。今だって、こうしてパソコンの画面の前でぼんやりした顔で目だけ何かをにらみながらガタガタとキーボードの打鍵を、暖房の効いた、しかし空気清浄加湿器によっていい感じの湿度に保たれた澄んだ快適なはずな自室の空気にガタガタと響かせている。やめたい。やめたい。でもやるだろう。きっと俺はこの二ヶ月を虚無に捧げる決心をするために文章を書いている、のかも知れない。白状しよう。俺は受験生ではない。では何?少なくなくとも受験生ではないし、これまで受験生だったこともなかった。

受験生が不定愁訴で医者にかかれば、まあ十中八九受験のストレスのせいにされる。医者は元々ガリ勉の受験生、あるいは僕のように怠惰で、それでもなぜか受験と大学に何かを期待したのか、あるいはそれ以外を否定したのかしらないが、とにかく元受験生だった人で、つまりは受験生の辛さとストレスなる謎概念で諸症状を説明できると信じている人間たちだ。それが実際のところどうなのかは知らない。なぜなら俺は受験生でないのにもかかわらず、受験から解放された試しがないのだ。受験をやめたい。それはそう。でも俺は、もっと他の、ここに書けばきっとしばらく囚われの身となるであろう悩みだとか、ここに書いたとて解決しようのない過去の、今の、これからの、家庭の問題もある。でも、これらは書かない。書いてどうするんだ。しかし書いてどうにかなるものがあるのかと問われれば返す言葉もない。ならば、これらは書きたくないだけであって、書きたいものを書いてるとしか言いようがない。書きたいことを書く。書いている。

 

今になって辛くなってきたことと言えば受験が迫ってきたこと以外に、当然他の問題もある。クリスマスが近くなった。俺の中のクリスマスと外のクリスマスがあまりに不均衡で辛くなってきた。今まではその浸透圧に釣り合う圧力ないし体内のクリスマス濃度を上げる余裕があったが、もう無い。そう、余裕がなくなってきた。余裕とは、つまり最低限度の文化的な生活以上を望むことであって、平均以上で、つまり社会が保障しないやつだ。それを持つかどうかは自由であって、単にオプショナルで、つまり本当はなくていいという「ことにされている」もの。それを持つための対価たるは金銭に代表されるだろうが、それ以外にもいろいろある。極端に言えば生存以外の全てはそこに含まれる。何もその気になれば換金できるもの、あるいは直接的に経済的利益をもたらすものだけではなく、それは肉体、精神の内部のみで完結するはずのものにすら“余裕”は見出される。その線引を生存に置くのは、すこしやりすぎた感じもある。生活、これにしよう。食い寝て風呂に入り、そういう、つまりは最低限度の文化的な生活だ。これはやれる。これだけやって、終わりだ。あえて加える。多分受験勉強も加えられる、ギリギリ。俺にとっての生活が受験勉強とともにあるとする。その上で、おそらく可能だ。本当に受験勉強だけすることには、本当は余裕など必要ない。受験勉強は受験勉強に完結する。俺に関わってこない。俺が受験勉強をしようがしまいが、受験勉強はあるようにある。受験勉強は俺に興味がない。受験勉強は受験勉強をしたいときだけ意識される。無機的。これはいいことだ。俺の肉体的精神的リソースを占有しない、おまけに時間も過ぎていく。いいことだ。いいことに違いない。これからの二ヶ月間が楽しみだ。ファックユー天安門

 

まてまて、俺がしたこととはツイッターのアカウントを消したことだ。決して精神が限界になったわけではない。なぜツイッターから離れたくなったのか?失恋ではない。本当に。本当だぞ。受験勉強は余裕を消費しないと書いた。余裕を消費するものがツイッターにはある。ロゴスだ。ロゴスがいらない。正確に書こう。悪いロゴスが俺の余裕を削る。ロゴスは操作可能で、脳の、精神の伸延だ。理性の伸延、かも知れない。他者の理性の結晶、それは文章。俺の脳はどうも、他者の理性と自分の理性を見分けられないらしい。絶対的な真理が存在し、それを見出さんとするものこそロゴスだ。ロゴスは共有可能らしく、文章を媒介に君のロゴスが、ツイッターを媒介にウン万人のゴミカスのロゴスが俺の精神の樹の枝の最も柔らかい先端にいざ析出せんと大群で流れ込む。もう、俺の余裕をそんな偽物のロゴスに捧げるのは御免だ。ツイッターのゴミクズどもの言ってることはほぼ全てが間違っている。ほぼすべてが、間違っている。前提が誤っている。言葉が間違っている。浮足立っていて、一見論理的であっても、実際はあやうい曖昧な区切りを都合よく運用しているゴミだ。AIとIoTで全てが解決すると思っているクソジジイと同じだ。水素水の抗酸化作用を信じる四十路のババアと同じだ。神を信じ、世界が神に造られたと思って生きている古代人と同じだ。こういう完全に誤った前提を無条件に信じる連中と話が通じる訳がないだろう?こんな連中の文章なんて見るだけ身体に、精神に毒だと思わないか?俺の貴重な“余裕”を奪っていく。俺の精神を正しく、つまり、俺の理性をロゴスと同一視するために、俺は余裕を消耗していた。クソが。クソが。この際だから言おう。連中は自虐すら満足にできていない。奴らが万の理屈を並べて自分自身を卑下しても、それら全てが間違っている以上、単に俺にそれを訂正したい気持ちをムラムラと湧かせるだけだ。自虐風自慢、ということではない。自慢する意図があるかどうかはさておき、とにかく前提、そして何もかもがおかしい自虐というのがこの世には存在するらしい。卑屈、そう卑屈なのだ。いや、連中は卑屈なだけではなくて、肝心のところには触れない卑しさがある。やつらは、本当に卑しい、奴らの最も醜いところには触れない。仮にそれが明らかに原因であっても、そこには触れずに、しかし生じた問題を説明しようとする。だから自虐に無理が生じる。別に卑下すべきではないところを自虐する。あるいは全く意味不明の自虐をする。だから卑屈にも見えるし、だけどそれ以上に、フェイクなのだ。これだ。お前らはフェイク。俺がリアル。

 喩え話をしよう。医者と患者がいる。患者はあれこれと症状を訴える。医者は統計的に優位で実際にその症状を解決する方法を知っている。しかし患者は祈祷による治療を要求してきた。邪気が溜まっているとかなんとか言って。いいや、違いますよ患者さん。と、まあ医者が患者と向き合っていればそう諭すだろう。では、この患者が、患者ではなくて、TV番組だったら。つまり、医者が、「がんは邪気から」というトンデモテレビ番組を見たときの気持ちはどうだろう。「がんは邪気が原因。邪気はあなたの心から自然に生じる醜い汚れです。これをうまく処理できないとがんにもなる。」テレビ局とスポンサー企業にクレームを入れるだろうか?学会に報告するだろうか?この番組が単にイカれていて、翌日には良識ある人々がSNSでボコボコに叩いていれば希望はあるだろう。バカバカしい。無視するという選択肢もある。だから初めのうちは、医者にもそれを無視する余裕があった。しかし、どうもみな邪気の存在は確かに感じるらしい。邪気理論に基づいた邪気医学が世間に受け入れられる。ゴールデンタイムの祈祷バラエティ番組が「がんを治すためにはこの神聖な柊と大豆の枝と鰯の頭でできた冠を必ずつけてください!この冠には邪気をウンタラカンタラ」と言っていたとする。そして翌日出勤すれば患者がみな冠を被っている。どいつもこいつも邪気の話をしている。帰りの電車の中吊り広告には呪術医の広告から『邪気のあるひとの10の特徴』とかいうタイトルの本の広告まで。そして学生時代の友人も、家族も!昔の恋人も!みんな邪気のことを気にしている。テレビ番組では呪術医が崇められ、本屋には邪気理論関連書籍が面陳されている。ツイッターではみな祈祷の方法について議論している。極めて体系化された邪気医学に基づいてみな思い思いに議論をする。邪気医学によれば、人間が生まれながらに生産能力をもつ邪気はがんだけではなくて、ありとあらゆる疾患から、人間関係の悩みまで、全ての原因になっているらしい。だからみんな何があっても「邪気が云々」と説明する。「あーあ、物理数学の単位落としちゃった。邪気溜まりすぎてた。」「邪気が溜まってる人は顔に出るよね。邪気隠しメイク!」「汚職政治家は邪気まみれ?気になる邪気量、邪気歴、身長は?」「衆議院では邪気者収容法が可決され……」「ジャキハラが問題に」「邪気生産力はほぼ遺伝!」邪気邪気邪気ああああああああああああああああああああああ。終わりだ。どいつもこいつも邪気医学に基づいた話をしやがる。違う。違う。違う。邪気なんて、邪気なんて。違う。祈祷なんて効かない。邪気が問題なんじゃなくって、それぞれ違う解決法があって、ああ、でも誰が俺の話を聞くだろうか。西洋医学は分かりづらい。実際に機能するとて、理解するのは難しい。祈祷で追い払える邪気と違って論理的に説明することの難易度が高い。だからみんな邪気医学は論理的だと思ってる。西洋医学に基づいた話をするとtoggeterにまとめられて赤字のコメントとはてぶにボコボコにされる。「きっと邪気が溜まっているから西洋医学なんかに傾倒するんだろう」ってな。そして民衆は邪気理論に基づいた自虐をする。邪気が溜まっている人の特徴が自分にもあるってな。それでみんなで慰め合うの。「大丈夫だよ、『本当に』邪気が溜まっている人はね……。」

でもみんな心の何処かで思ってる。本当は邪気が問題じゃなくて、祈祷なんて効かないけど、でも、邪気のせいにすれば、邪気のせいにすれば……。フェイク

 

 

俺はツイッターのアカウントを消した。